柏原さんの日常

おるたなてぃぶな生活を

高学歴の世界に対して/最近思うこと

 気がつけば夏が過ぎ去ってました。もう9月も折り返しなんですね。外に出ると心地の良い空気に包まれます。過ごしやすくなりました。僕は夏より秋冬の方が好きなので喜んでます。

 

 時が経つのが早い。休養してはや半年、少しずつ気分も良くなってきて、自分の病と向き合えるようにもなってきました。感情や気分のコントロール、ノイズのシャットアウトの仕方にも慣れてきて、生活も以前より楽になりました。秋学期からは他大学ですが、ある先生のご好意によって、授業やゼミに参加させていただけることになりました。来年度からの復学にむけての準備みたいな感じです。その先生とは1年次から有志のゼミでお世話になっていて、いつも知的好奇心を刺激してくれるので楽しみです。

 

 話は変わって、今日は久々に同郷の友人と遊びにいきました。車を出してもらったうえに、一日中買い物に付き合わせてしまいましたが、そんなワガママを言えるのも彼がとても好きで信頼しているからです。心を開けるだけじゃない、僕と同じような感覚を共有できる友人だからです。同郷意識とも言えるでしょうか。

 自分で言うものではありませんが、僕は周りの人よりも、多くの悲しみや苦しみを経験してきたと思います。そして静岡という、都市部の文化圏とは大きく相違した土地で育ってきました。

 そんな環境や経験を体感した人同士にしか分からない感覚があります。都会というインテリジェンスな環境で育った人には分かりずらいであろう感覚です。排他的な言い方ではありますが、多かれ少なかれ僕は"上の世界"(ある人のブログでは「高学歴の世界」と称しています)で育った人との溝を感じています。都内の大学に進学してより痛感しました。

 もちろん僕の境遇を理解しろなんていいません。それに僕は中途半端に下層にいますから。富める人間に中指を立てるよりもまえに、僕以上に過酷な状況に置かれている人へ目を向けることが大切だと思うので。

 ですが僕の大学では、高学歴の世界、都市の文化圏の中で育った人がたくさんいます。彼らはとても賢いです。僕らのものとは全く違う価値観と常識で生きています。その溝を埋めるのは困難です。不可能に近い。ただ彼らの価値観や常識に対して、異様な、混沌としたものを感じてしまいます。上手く説明しかねますが、例えるならメッキを金だと喜んでいるのを見たときのような感覚です。

 語弊を恐れずに言うとすれば、恐怖・不可思議・気味の悪い感覚です。

 彼らのスタンダードがハリボテに思えて仕方ないのです。虚飾の倫理と言いましょうか。目に見える、分かりやすいものにとらわれすぎているような。

 例えば、ある都会の学生が電車に乗っているとしましょう。座席は全て埋まっていて、彼も座っています。そこに杖をもったご老人が彼の近くにきたとします。そうすると彼は席を譲ります。このとき彼は善意や道徳観から席を譲ったと考える人が多いでしょう。事実僕もお年寄りや妊婦さんに席を譲るのは良いことだと思います。ですが、普通の若い男性に席を譲ったとしたらどう見えるでしょうか。どちらも本質は同じ善意からきたものです。けれど傍から見たときお年寄りや妊婦さんに席を譲った方がより善人に思われ、賛辞されるでしょう。僕はそれに違和感を感じて仕方ないのです。

 またこれは僕の経験談になりますが、先日まで隣人カップルがよく喧嘩していました。深夜で気分が落ち込んでいるときに限って、女性の泣きわめく声や悲鳴が聞こえるのです。女性が締め出されてドアをドンドンと叩く音も響きます。女性が男性にひどいことをされているのではないかと推測できます。僕も誠実でありたい、他者に手を差し伸べれる人になりたいと思っていますから、何か対処した方がいいのではと考えました。けれど何もできず、イヤホンをつけて布団にうずくまることしかできなかったのです。

 本当に情けない。ですがそのときの僕は抑うつ状態で気分が落ち込んでいますし、女性の甲高い声がヒステリックな母親を、思い出したくない家庭でのトラウマを想起させるのです。女性が被害者だとしても、パニック状態の彼女に声をかけることは、そのときの僕にとって厳しかったのです。隣人のトラブルに少しでも干渉する勇気も警察等に連絡する余裕もなかったのです。

 後日、そのことを大学の人に話すと「それは通報するなり声をかけるなりするべきだった」と言われました。まったくです。男としても、辛い思いをしてる女性に手を差し伸べられないなんて、情けない限りです。

 でも思うことがあるのです。その悲鳴が男性のものだったら?女性だから助けるべきなのか?

 こんにちでは男女平等やフェミニズムジェンダーなどについて様々な問題が提起されています。やはりまだ日本は女性の立場が弱いと思いますし、女性の社会的地位向上や福利厚生の充実は重要な課題だと考えています。

 けれども"女性だから"を起点にされがちな気がします。

 身の上話になりますが、僕の家庭では父親が母親に精神的な虐待を受けていました。「死ね」は毎日の挨拶みたいなものでした。僕が幼少期の頃から、僕がいる前でもあたりまえのように人以下の扱いをしていました。

 それゆえに僕は母親を憎んでいました(今でも母との確執は残っています)。しかし離婚後様々な理由から母方に親権が渡り、今まで僕を育ててきてくれました。もちろんそれは感謝してますし、苦労をかけさせたとは自覚してます。周囲からも「女手一つでお前を育ててくれてるんだから感謝しなさい」などと言われることが多々ありました。でも僕はどうも腑に落ちないのです。何も知らない外野が"女性"だから、"シングルマザー"だからという固定観念だけでものを言ってるように聞こえて仕方なかったのです。なんで周りは父親を悪者扱いするんだろうなって。母親があたかも正しいように見てるんだろうなって。

 昨今社会問題になってる家庭内暴力、いわゆるDVは男性が加害者で女性が被害者のパターンが多いようです。それゆえに女性を助けよう!なんて風潮ができるのは納得できます。

 ですがそれが第一に考えられるのには納得がいきません。本質的に成すべきなのは「男女平等」や「DVの撲滅」であって、そのための女性の地位向上ではないでしょうか。なのにみんな"女性だから"というところに目がいきがちになっているように思えます。

 

 いろいろと話が脱線しましたが、僕が感じている周囲との溝は「あたりまえ」の違いからなのかなとも思います。

 大学で出会った人たちには、学費や仕送りがあって当たり前、中学受験をするのも当たり前、塾や家庭教師など教育にお金を使うの当たり前、そんな文化圏で育った人がかなり多くいます。そんな人たちを羨んだり憎んだり嫉妬したりするのは意味がありませんし、自分の過去をありのままに受け止めて、今なにをするかを考えるべきです。それに僕の境遇はまだ全然良い方です。もっと絶望を経験している人もいます。環境が悪くても努力で這い上がってきた人もいます。僕が同郷の友人としか分かり合えないように、それぞれの世界の人たちにしか分かり合えないことがあって、他の世界の人たちからしたら僕らの認識は歪んでいるように見られているのかもしれない。

 それでも僕は高学歴の世界や都市の文化圏の人の認識が狂っている、偽善や虚飾に彩られているように思えてしまうのです。大学にいくと周りは自分たちの「あたりまえ」を、常識を、価値観をスタンダードに見ているように思えてしまう。何が正しいのかは分かりませんが、僕はこの溝や違和感を無視してはいけない。もっと考えていきたいんです。

 もう話が脱線しまくって訳が分からなくなってしまいましたね。それに上手く説明できてない。何を話したいのかも伝わりにくい。でももしこれを読んでいるあなたが「高学歴の世界」の人なら、僕らの世界のことを、この溝のことを考えて貰えればと思います。自分の常識や道徳について疑念をもってみてほしいです。例えば海外ボランティアは本当に良いことなのか、聞こえがいいだけじゃないのか、海外へ行く前に日本国内で支援を求めてる人はいないのかとか。

 そういう僕もまた勉強していきます。そしてまたいちから出直して、この記事の内容をまとめたいと思います。