柏原さんの日常

おるたなてぃぶな生活を

虚構と現実とSyrup16g。明日に祈りを。

  まず現状報告から。

 鬱病と診断されてから、はや2ヶ月。1〜2週間に1度の頻度で通院している。明後日も診察だ。最初は怖かった心療内科の空気も今では慣れてしまった。小さなビルの一室にあるそこは不思議な空間で、狭い待合室では独特な香りが漂っている。通院するまで知るはずのなかった世界。

 その心療内科も担当医も、ある程度信用できるようになってきた。ちょうど良い選択だったと思う。

 ただ、診察に行く度に薬の量は増えていく。種類を変えることもある。もちろん副作用は辛いが、仕方ないことだと受け入れて、ちゃんと毎日欠かさず内服薬をのんでいる。

 そのおかげか、前よりかは少し楽になって、良い兆候が現れてきた。けれど、まだまだ病状は寛解とは程遠く、辛いことばかりの毎日に変わりない。行動に起こす気はないが、死については日常的に考えてるし、死に思いを馳せることもしばしば。

 

 それでも、鬱病と診断されてから、自分と向き合ううちに色々なことを考えるようになった。また様々な物事の捉え方や見方が変わった。どこかポジティブになったような気がする。

 抑うつが酷いときは「明日なんか来てほしくない」「ずっと何も考えず、嬉しさも苦しみも何も無い世界にいたい」といったことばかり考えていた。考えていたというよりも放心状態に近い。

 今も確かにそういったネガティブな感情もしょっちゅう出てくるが、少なくとも"明日"がくることを受け入れることができるようになった。「明日は今日より少しだけでも良くなるはずだ(良くなってくれ)」と願い祈ることを覚えた。この思想は、僕の周りの人や最近鑑賞した物語や音楽に影響を受けたもの。バカのひとつ覚えと思われてもしかたのないのは分かってる。でも前よりかはマシだと思ってる。

 

 昔は虚構の世界はなんて素晴らしいんだと思っていた。

 僕は小学生の頃からパソコンを使ってインターネットに触れることができた。父親の会社のお下がりのデスクトップパソコンが小学3か4年のときに家にきた。もちろんインターネット回線を繋いで。父親の所有物ではあったが、両親はインターネットもパソコンもそんなに使わなかった。たいてい僕が使っていた。XPのデスクトップに映る草原と青い空を眺めながら、Internet Explorerのアイコンをクリックすると、そこには見たこともないほど広大で素敵な世界が広がっていた。小学生の僕は、好奇心を抑えられず、その夢のような世界にどんどんとのめり込んでいった。

 当時の僕の現実は酷いものだった。学校に行けば(もちろん友人との楽しい時間はあったが)子供特有の残酷な人間関係に苦しむような時期もあって、家庭は徐々に崩壊していってと、様々な恐怖や不安が付きまとっていた。だからこそインターネットの世界はとっておきの逃避先だった。中学生になっても、そんな風にインターネットへ逃げていって、インターネットでたくさん楽しい経験をした。

 当時、僕がネットでやることと言ったら、気になることを調べるのもそうだが、主には2ちゃんねるのスレッドを眺めたり、動画サイトに違法にアップロードされたアニメを観るのが主だった。今は違法アップロードに対して厳しい処置がなされているが、当時はYouTubeはもちろんDailymotionやらAnitubeやら色んな動画サイトで見たいアニメはだいたい見ることができた。僕が没頭して観てたのはいわゆる京アニ全盛期なんて言われるころのアニメが主で、確か初めてのオタクカルチャーとの出会いは「らき☆すた」だった。僕はらき☆すたで女の子への興味を持ち、らき☆すたで性を知ったと言っても過言ではない。ここらへんの話は今回の話から脱線するし、かなり滑稽になってくるのでまた現実で会ったときにお話しましょ笑

 他にも「涼宮ハルヒの憂鬱」や「CLANNAD」、「とある魔術の禁書目録」とか色んなアニメを観た(僕はオタクとしても未熟なのでもっと多くのアニメを観てた人もたくさんいるだろうけど)。これが客観的に良いかどうかは置いておいて、僕がゼロ年代に対して今でも哀愁や憧憬を抱くのはこのときの経験からだろう。ただ今からみると、良くなかった(間違っていたな)と思うことがある。虚構の世界に夢を見すぎたのだ。憧れ過ぎてしまったのだ。人は孤独であることを認めて明日に進まなきゃいけないのに、当時の僕はアニメの女の子に恋をして、やさしい作られた日常に浸って、現実を見るのを拒んでアニメの世界に本気で入ろうとしていた。むしろ心や思考の一部は虚構の世界に囚われていたのかもしれない。

 物語は強い力を持っている。それは良くも悪くも人に影響を与える。現実から目を背けさせて虚構に溺れさせることもできれば、人を明日の世界へ歩ませることもできる。僕は日常系アニメのような、逃避先になりうる物語を否定するわけじゃない。そういう物語は必要で、素敵な物語に変わりわない。それらは一時的なシェルター、あるいは休息所として楽しめばいい。もしかしたら現実に向かう力を見いだせるかもしれない。ただそこに永遠にい続けることはできないし、い続けてはいけないと思ってる。覚めない夢が存在しないのと同じように。

 僕は物語を信じている、少なくとも信じたいと思っている。ここ最近色んな小説やアニメ、映画を観た。その中で僕の心に一番響いたのは、先程言ったような"明日へ背中を押してくれる"物語だった。夢からはいずれ覚めなくちゃいけない。どれだけ明日を拒んでも、どれだけ現実に苦しんでも、朝はやってきて、生活は続いていく。抑うつが酷いときはその事実から目を背けて、放心状態で生きていた。もちろん今「明日が少しでも良くなる」と願い祈ることができるのは、ひとえに治療のおかげでもあるのだが、やっぱり僕に現実を、誰しも孤独なのだという事実を告げながらも、明日を信じる力をくれた物語や友人のおかげでもあると思ってる。その友人と物語のためにも、少しずつでもいいから、甘えて休んでもいいから、病気と向き合って回復していきたい。

 

 

 もうひとつこの記事で話したいことがある。興味のない人は飛ばしてもらって構わない。これから書くのがメインで話したかったことかな。たださっきの自分語りで話したことと関連する点があるから、同じ記事内で書きたいと思う。

 その話したいテーマが、「Syrup16g」というバンドについてだ。

 サブスクで音源の配信が始まり、久しぶりのツアーも決定して、最近何かと話題にあがるバンド。僕が愛してやまないバンドのひとつ。

 

 先程、小中学時代はアニメばかりみてた典型的なキモオタクだったといったが、高校時代からは音楽に没頭するようになった。(まあ気持ち悪いオタクなのは今も変わらないのだけれど)

 アニメを観たり本を読んだり、ゲームをしたりする時間よりも音楽を聴く時間の方が多くなった。主にロック、バンド音楽ばかり聴き漁ってた。今でもそうだが。以前は音楽といったらアニソンやエロゲソングぐらいしか聴かなかった僕にとって、そういった音楽は新鮮で物語とは違った良さを感じた。

 聴くのはもちろんギターをやり始めて、バンドを組んで、自分で曲を作って、地元のライブハウスでライブをやって。それが唯一の楽しみだった。音楽関係で仲良くなった人たちと遊ぶのも楽しかった。(今でも大事な親友で色々と助けてもらってる。感謝しかない)

 音楽は物語とまた違った力や効能を持ってるとは思うけれど、やっぱり高校生になっても現実から逃避していたことは否定できない。逃れる先が物語から音楽に変わっただけ。

 ただその時聴いた音楽に多少なりとも救われてたのも事実だ。

 当時好んでよく聴いてたバンドと言ったら、邦楽でいえば、BUMP OF CHICKENフジファブリックART-SCHOOLに、ASIAN KUNG-FU GENERATIONなど、アニメの件と同じようにゼロ年代のバンドが多かった。表現方法は違えど、ゼロ年代という概念で繋がるものがあるのかもしれない。(例えば「CLANNAD」や「Angel Beats!」の原作者の麻枝准ART-SCHOOLバンプなどに影響を受けていることや、作品の随所にそれらのバンドからの引用をしてることからも見受けられる)

 その中でも特に好きで毎日のように聴いてたのがSyrup16gだ。大学生になってからもよく聴いている。鬱病になってから更にしょっちゅう聴いてる。

 Syrup16gの何が僕の心を惹き付けたのか。

 まず90'sUKチックで独特な揺らぎのかかったギターサウンド(コーラスを使ってるかと思ったら、ディレイを重ねてるという話もあって再現したいのになかなか上手くいかない…)、なめらかに気持ちよく絡んでくるベースライン、力強く支えながらも丁寧で時折グッとくるリズムを入れてくるドラム、そして美しくて心地よいメロディを気だるげに、時に激しく歌い上げるボーカル。これらを含めたサウンドや曲自体に惹かれたのは間違いない。

 けれど何より僕の心を掴んだのは、五十嵐の歌詞だ。

 高校時代の僕はSyrup16gART-SCHOOLBURGER NUDS(洋楽だとレディオヘッド)など暗い曲を演奏する、いわゆる鬱ロックなんて言われるようなバンドが好きだった。それらに影響を受けたテン年代の鬱ロックバンドも色々とディグって聴きあさった。けれどなんか違う。僕がのめり込む音楽はほとんどなかった。BURGER NUDSART-SCHOOLももちろんだが、やっぱりSyrup16gが僕の心を掴んで離さなかった。

(ART-SCHOOLSyrup16gと同等に僕に影響を与えたバンドだけれど、今回はSyrup16gに的を絞って話を進める。ART-SCHOOLの話はまた別の機会にブログに書きたい)

 Syrup16gの歌う歌詞、五十嵐の紡ぐ言葉の何が良いのか。高校生の僕には上手く説明できなかっただろう。感覚的に近く感じたのだから。今もそうだし、相変わらず上手く説明はできない。けれど高校の時に聴いたSyrup16gと今聴くSyrup16gは感じ方が違う。高校時代よりも少しだけでも何かが分かった気がする。

 この記事の最初の方で「うつ病になってから色んな物事の捉え方や感じ方が変わった」と前述したが、一番良い意味で変わったなと思うのはSyrup16gだ。

 Syrup16gの作詞作曲をつとめる五十嵐隆は公言しているかどうかは知らないが、うつ病か何か精神病を経験していると思っている。精神病の薬をもじったタイトルの曲も作っているし。(ちなみに「空をなくす」という曲のタイトルの元となったソラナックスは僕も使っていた。ソラナックスを服用しながら「空をなくす」を聴くと、何だかよく分からない気持ちになった…笑)もっと踏み込んだ憶測を言うのなら、真面目で誠実だから故に心を病んでしまっていたような気がする。あくまでも憶測にすぎないのだけれど。

 実際自分が鬱病になって体感した感覚や経験、思考を歌ってくれてるような感じがする。五十嵐の歌詞を聴くたびに(あまり使いたくない言葉だけど)強く共感するんだ。その共感は、高校時代に「感覚的に近くにいる」ように思っていたものの延長なのかもしれない。

 これは他のSyrup16gファンの人もよく言うセリフだが、本当にリアルなのだ。Syrup16gの曲は。五十嵐の吐く言葉は。僕みたいな人間(というと傲慢かもしれないが)の代弁者のような感じ。僕が感じていることを詞として歌として、洗いざらい音楽という表現で伝えられてる。それは僕が隠したい感覚や、上手く説明できない感覚、漠然として自分でも理解しきれていない感覚も含めて。

 五十嵐の言葉は、現実的だ。リアルだ。ただそれを聴いて、見透かされてるだとか、痛いところを言われたとかそういうのではなく、それをSyrup16gというバンドでSyrup16gサウンドで演奏してくれていることに救われている。

 ただ「死にたい」だとか「苦しい」だとか安直なものじゃない。心に深く溶け込んでくるような"詞"としてのリアリティだ。心は掴まれるし、寄り添ってくれるように思うとき(曲)もある。けれど、五十嵐は何も僕らの代弁者として表現しているのではないだろうし、僕らを救ってあげるためにバンドをやっているわけではないだろう。Syrup16gSyrup16gで、五十嵐は五十嵐で、そして僕は僕でしかない。共感はしても、僕ら個人個人は孤独であることに変わりわない。孤独であることに目を背けちゃいけない。

 Syrup16gの歌う現実はその"孤独"を前提としてあると思う。そして僕らが孤独であること、決して五十嵐と同じ感覚を共有してるわけではないということを、理解したうえでSyrup16gを聴いてこそ、僕は心の底からSyrup16gというバンドを信じることができると思ってる。

 ただ鬱や絶望を共有するだけじゃだめだ。それは馴れ合いと変わらない。

 前述したように僕は「明日」を信じて、「明日が少しでも良くなる」と願い祈りながら、「明日」へ進んでいかなくちゃいけない。物語が僕に明日へ歩む後押しをしてくれたように、今僕はSyrup16gを聴いて、前へ、明日へ、目を向けることができる。

 僕は完全にSyrup16gを理解してるわけではないし、完全に理解することは不可能だと思ってる。単なる一人のリスナーにすぎない。おまけに未熟で理解力のない人間だ。だから憶測や感覚でしかものを語れない。

 それを踏まえて言及するなら、Syrup16gは完全な希望は歌わない。希望に反するような暗い歌詞が多いが、完全な希望を歌わないように完全な絶望も歌わない。そこがリアルなのだ。そして、憂鬱や暗闇が多くをしめるリアルな曲のなかで、まれに歌う希望に僕は救われている。苦しみや悲しみや痛みを知っている人間の吐く希望ほど強く信じられる(信じたい)ものはなかなかない。

 例えばSyrup16gの代表曲に生活という曲がある。

 Syrup16g 生活 - YouTube

 

 僕の大好きな曲で初めてギターでコピーしたシロップの曲だ。

歌詞を一部抜粋すると

君に存在価値はあるか

そしてその根拠とは何だ

涙流してりゃ悲しいか

心なんて一生不安さ

 

I want to hear me

生活はできそう?

それはまだ

計画を立てよう

それも無駄

 

 とまあこんな感じ。

 憂鬱さが分かる歌詞だが、僕がグッと来たのはラストのこの一節だ

そこで鳴っている

そこで鳴っているのは

目覚まし時計

 暗い憂鬱なことを言ってはいるが、最後に「明日はくるんだ」と思い知らされる、肯定しなくちゃいけない事実を告げて曲が終わる。

 Syrup16gは逃げない。Syrup16gは僕らが虚構に逃げて溺れさせずに、明日に目を向けさせる。僕らは夢の中にはいられない。現実と向き合わなくちゃいけない。

 今の僕にとってSyrup16gは希望だ。リアルで現実的で厳しいかもしれないが、それでも、いやそうだからこそ、僕はSyrup16gが好きで、今もなおSyrup16gに救われてるんだ。

 

 最後にSyrup16gらしくはないけど、僕が一番好きな曲を貼ります。

「翌日」って曲。

Syrup16g/翌日 - YouTube

 

 五十嵐がどう思ってるかは知らないけど、僕は虚構に溺れないように生きるよ。どんな日常も苦しくて悲しい生活も、必ず明日に変わるから。「明日が昨日より良い日になる」って祈りながら生きていくよ。

 だってあきらめない方が奇跡にもっと近づくからさ。