青い髪の女の子と
ここ最近、受験期で観れなかった(読めなかった)分、アニメやら小説やら漫画やらを消費してる。慣れない新生活の数少ない楽しみだ。それにいつだって擦り切れる僕の心を癒してくれるのはそういった物語で、そこに登場する女の子だった。
先日「Re:ゼロから始める異世界生活」を見終わった。二年前、ちょうど僕が高二になったと同時に放映されたアニメで、その時僕はバンドをやってギターを弾いて音楽を聴いての毎日だったのでアニメを観る習慣が薄れてたから、盛り上がってるのは知ってたがリアルタイムで観ることはなかった。今更ではあるけどオススメされたので観てみると結構面白い。予想よりも楽しく鑑賞することができた。
作中にレムという青い髪の女の子が出てきたのだけれど、この娘がまた可愛い。
リゼロを観た人はわかる通り、このレム(通称レムりん)は健気で主人公に献身的な優しい女の子であるにもかかわらず、作中ではなかなかに不遇な立ち位置にいる。
僕はこういう健気で不遇な女の子が大好きなオタクだ。
エヴァの綾波レイしかり、まどマギのさやかしかり、青い髪の女の子はメインヒロインにはなれず、残念な運命を辿ることが多い。
どんなに健気でも主人公はメインヒロインを選び、作中に描かれなくともその子と幸せな生活を送るのだろう。
なら青い髪の女の子は?バッドエンドになるしかないの?救われることはないの?
不毛な問いだと分かっているけど気がかりになるときがある。
リゼロでは主人公が、現実に諦めを抱き、レムりんに「一緒に逃げよう」と提案する場面がある。結局レムりんはそれを断り、主人公を正義の道へ突き動かすのだが、僕はその逃避行をするという選択肢も一つの答えだと思う。まあ、作品的にもレムの感情的にも幸せに帰結することはないのだろうけど、僕にとって青い髪の女の子と、(あるはずがなくても)幸福を求めてどこまでも逃げていくというのがとても魅力的に感じる。
仮に逃げた先に幸福があったとしても、逆にメインヒロインが不幸になることだってある。どちらも救われない可能性だってある。それでも僕は、光のような女の子に救われるよりも、悲しい思いをしている青い髪の女の子と一緒にいたい。レッツゴー逃避行したい。
要するにレムりんが可愛い。
最近のART-SCHOOL
アートスクーラーとして恥ずかしながら、先日ようやく最新盤の『In Colors』を購入した。僕が新譜を買うくらい好きなバンドは数少ない。ART-SCHOOLはそのひとつ。
だいたい僕の好きなバンドは、やっぱり初期が一番だなと感じることがほとんどで、最近になるとあまり好みじゃなくなることが多い。特にBUMP OF CHICKENとかそう。ART-SCHOOLも実際『LOVE/HATE』あたりの、孤独でヒリヒリしてる感じが好きなのだけれど、最近のも悪くない。むしろいい。サウンドも凄く綺麗になってるし。
なにより、今までよりも僕の心に寄り添ってくれてるように感じる。
これは前作『Hello darkness, my dear friend』から感じてたことで、許しというか肯定というか、「それでいいんだよ」と受け入れてくれる優しさがあるような。
初期(『Missing』以前)までのアルバムを聴いても、自分の心とリンクはするけど、やっぱりART-SCHOOL側も孤独で排他的な印象を多少なりとも受けた。
結成から20年近く経って、木下理樹も今年で40歳になる。ちょっと信じられない気はする。理樹さん、まだ少年っぽいし笑
それでもこの大人への変化が『Hello darkness, my dear friend』や『In Colors』が僕を包んでくれる優しさの出処なんじゃないかな。当たり前だけど、理樹さんも大人になった。
普通僕は、アーティストや作家が年をとって大人になってしまうことに寂しさを覚えるのだけれど、理樹さんのこの変化はとても憧れる。
自分も誰かを受け入れたい。誰かに「それでいいんだよ」って言ってあげれる人間になりたい。
でもまだ自分が受け入れてもらいたい、肯定してもらいたいという感情の方が強い。まだ子供だ。
『Hello darkness, my dear friend』の発売時のインタビューでこんなのがある。
「子供たちのシェルターになる音楽を」腹を括った木下理樹の覚悟 | CINRA「子供たちのシェルターになる音楽を」腹を括った木下理樹の覚悟 | CINRA「子供たちのシェルターになる音楽を」腹を括った木下理樹の覚悟 | CINRA
大人になることへの抵抗はあるけど、木下理樹みたいな大人にならなりたいなと思う。
僕がそうしてもらったように、傷ついた子供たちのシェルターになるような。
天才だった頃の僕に
才能ってなんだろう。
僕が小・中学生の頃は自分が才能のある人間だと信じていた。知識も豊富だったし、大して勉強しなくてもテストでそこそこの点数を取っていたし、小・中学生にしては深く物事を考えることをしていた。周りを見下すまではいかなくても、「子供っぽいな」とか「何で分からないのかな」とか斜めから見ていた節はある。
一応成年と呼べる年齢になって色んな世界を見てみると、自分が大した才能を持ち合わせていないことに気付いた。至極普通な凡人。むしろ劣っていると感じることもある。中途半端な、つまらない大人に近付いてることが分かる。
あれほど嫌悪してたつまらない大人に自分がなるのか、つまらない生き方で社会に順応していくのか。きっと中学生の僕には想像出来なかったし、想像したくもなかったことだ。
15歳の僕はいくらでも自由に理想を描けた。無邪気に語ることもできた。学者にも、ベストセラー作家にも、ロックスターにも、なんなら総理大臣にだってなれたかもしれない。
けれど僕はそこからたくさんの現実を知って、大人になっていく周りを無視できなくて、昔描いてた理想に価値を見いだせなくなって。それに僕よりも美しい文章書く人や良い曲を書く人、教養があって頭が冴える人なんてごまんといるんだってことを痛いほど思い知らされた。
僕の好きなバンド、Syrup16gの『天才』という曲にこんな一節がある。
天才だった頃の俺にまた連れてって
いつのまに
どこで曲がったら良かった?どこで間違えた?
教えてよ
この曲を書いた五十嵐隆のいう"天才だった頃"が どんなものかは知らないけど、僕に天才だった頃があるとしたら、さっきも言ったとおり、いくらでも理想を描けて、誰がなんと言おうとそれを実現したいと強く願えた時代のことだ。またその天才だった頃に僕を連れていってほしい。いや、連れていって欲しいというよりも、天才だった僕が今の僕の立場になったらどうだろう。きっと与えられた自由や恵まれた環境の中で、いくらでも理想を実現できる手立てに溢れていることに大喜びするだろうし、実際行動に移すに違いない。
僕は年を重ねていって、増えていく自由に甘えて、汚されて、誰かが決めたカリキュラムや道筋に沿っていく生き方に安心してしまった。人目を気にせざるを得なくなって、自分自身で価値を見つけることを放棄しつつある。
なら今僕にとって価値を見いだせるものは何か。こういうと大層だけど、要は喜びや満足感を感じるのはどういった時だろうと考えてみると、誰かが喜んだり感動してくれたりするのが何よりも嬉しかった。志村正彦や木下理樹や麻枝准に憧れてた昔の僕は、自分が彼らにそうしてもらったように、誰かの心を救ってあげたいと願っていた。今の僕にそこまで強いヒーロー願望はないけれど、それでも誰かが感動してくれるのは純粋に嬉しいし、自分も誰かの心を少しでも救ったり感動させたりできたらいいなと思う。
先日、何気なくこのブログを再開して「記憶に縋っても」というタイトルで一つ記事をあげると友人から「うるっときて泣いてしまった」と言われ、フォロワーさんからも共感のリプがきた。単に承認欲求が満たされて舞い上がってるだけかもしれないが、自分が誰かの心を1ミリでも動かすことができたことが嬉しくて、久しぶりにちゃんと生きてる心地がした。生きがいを得たみたいな。
有難いことに文章を書くの上手いねと言ってくれる人もいるけど、正直僕は自分の文章は稚拙で才能だなんて言えたもんじゃないと思ってる(現に今こうして記事を書いていても無駄が多くて完成度の低い文章だと痛感してる)
それでも少しの人たちの心を少しだけ動かせたことは、価値のあるものだ。
きっともう僕は志村正彦にも麻枝准にも、もちろん総理大臣にもなれやしない。おそらく天才だった頃の自分に戻ることも無理だろう。だけど僕の好きな人たちをほんの少しだけでも救えたとしたら、昔の僕とはまた違った天才なれるんじゃないか。別になにも物書きをするというわけではなくて、日常で誰かに優しくするだけでもいい。むしろそういう何気ないことこそが、紛れもない"才能"なんだと思う。
深夜0時のコインランドリー
大学進学のために上京してから10日が経った。依然として何かが進展したような心持ちはしない。大学構内ではどこか楽しげな、開放的な雰囲気が充満していて、自由を歓迎するダンスホールのようにも思える。それはもちろん僕も同じで、自由が増えたのは事実だ。辛気臭い家庭もよく分からない校則もなく、自分が好きなように選択して生きていけるわけで、不自由なことがあるとしたらまだ洗濯機と冷蔵庫がなくて困ってる程度。
だけど多分自由ってのは孤独に近いものだと思う。自分を取り巻くしがらみを全て捨て去ったのが自由だと言うなら僕はそんなもの欲しくはないし、僕が欲しいのはほんの少しの安心で、心の許せる空間なんだ。
さっきも言ったように僕はまだ洗濯機を買っていない。だから定期的にコインランドリーに来てる。どうでもいいけど僕は深夜の誰もいないコインランドリーが好きだ。そこで音楽を聴きながら、チューハイを飲んで、グルグルと回る洗濯機を見るのが最近の趣味になってきてる。グルグル回る洗濯機にはどこかハムスター的な可愛さがあって愛着が湧いてきてるとかきてないとか。
まあそこまではいかないにしても一人で落ち着けるのがこの場所のいいところだ。でも寂しいことは寂しい。となりに他愛のない会話を楽しめる子でもいたらななんて思う。
例えば高校の友人なら僕が
「なあ、この洗濯機同じところを繰り返し回り続けてさ、バカみたいだなって思うけど僕らも大概だよなぁ」
って言えばきっと呆れた顔をしながらも、あーだこーだと取り留めのない話をしてくれるだろうけど、実際友人たちは近くにいないわけで。仕方なく、これまたベタだけどくるりの「東京」を流して気を紛らそうとしても逆によりしんみりしちゃって。本当に洗濯機と変わりない生き方だ。
東京に来てからそんなこんなで閉塞感をより感じるようになったけど、その生活の中で欲しいのは自由じゃない、やっぱり安心感。ほんの少しの幸福。例えばいつの日か人の少ない図書室や放課後の教室でそうしたように、深夜のコインランドリーで他愛のない会話ができる女の子がいてくれたらなと思う。その子は僕と同じような閉塞感や不安感に苛まれていて、水曜日24時のコインランドリーで、最近の出来事や愚痴や、小説や映画の話や、他愛のない会話をする。ライトノベルの読みすぎな気もするけど、本当にそれだけでいいんだ。僕にとって幸福はそういう他愛のない空間にあるのだろうし、今僕を救ってくれるものがあるとしたら間違いなく、深夜0時のコインランドリーで憂鬱そうにしてる女の子だと思う。
150円の関係性
僕は何かを貸し借りするのが好きだ。もちろん安上がりだという理由もあるけれど、賃借している相手との関係がはっきり存在しているのが嬉しい。貸主と借主にすぎない関係であっても、少なからずその間に信頼が橋になってる。何よりモノを返す(返してもらう)ために必然とまた会う機会が約束されてる安心感がある。
今日は高校の離任式だった。実質最後の登校日みたいな感じ。多くの友人とは離ればなれになるので、当たり前だけどこれから会う機会は滅多になくなる。今後一生会うことのない人もでてくるに違いない。僕は割とこういうのに悲しくなる人間だ。不安なので仲の良かった友人に「寂しいから東京に遊びにきてよ」というと「いいよ、誘ってくれればいつでも行くよ」と返してきた。優しいなと思うけど、どうしても社交辞令のように聞こえてしまう。いずれ誘っても迷惑がられるのでは、きっとあっちで別の友人を作って僕のことはどうでもよくなるのでは、とかなんとかかんとか。被害妄想癖。
式が終わってから卒業式で渡せなかった花束を担任に渡すと純粋に喜んでくれた。嬉しい。その花束は前日に僕が立て替えて購入したものなのでクラスメイトからお金を徴収する。1人150円ずつだったけど、前もって言っておくのを忘れてたので、小銭がない人も何人かいた。なので代わりにカラオケの割引券や千円分の商品券(一体どこで使えるのかは分からない笑)を渡してきたりした。さっきの仲の良い友人も小銭がなかったらしく、
「東京遊びに行くから、そんときに返すよ」と言う。
やっぱり乙な友人だなと安心したし、たかだか150円の貸しなのにそれがとても価値のあるものに思えた。絶対に返してもらわないといけないな。
記憶に縋っても
ここ最近中学の同級生に会うことが多い。僕自身はあまり中学時代の人間関係が良好だったとは言えないので、今更会って何を話すんだってところだけど、本当に仲の良い友人が集まりに誘ってくるので断りきれない。久しぶりに会って嬉しい友人も何人かいるし。それでも旧友と話しているときでさえ辛くなることがある。なんとういうか僕と彼らとの"相違"がひしひしと伝わってくるような。誰かは就職をして立派な社会人に、また誰かは名門大学に進学、はたまた学校を退学してヤクザになりそうなやつもいた。別に羨望や軽蔑の念を持ってるわけじゃなくて、周りが変わっていくことがただ悲しい。当たり前のことだとは分かってるけれどなんだか悲しい。同時に僕はなにをやってるんだろうと思う。中途半端な人間だなとも思う。
「お前は変わってないよな」と昔の同級生たちは口を揃えて言う。そう言ってくれるのは安心するけど、そうじゃないよと返す。みんなはそう思っていてもね、表に出さなくてもね、汚い大人に近づいた気がするんだよ。
でも自分が変わる以上に他人が大人になって変わっていくことのほうが心にくる。
高校時代、放課後に他愛のない話をし続けた友人もすぐに大人になって愛想笑いに磨きがかかるのだろうし、昔好きだった女の子もこのままサッカー部か野球部の男の子と明るい家庭を築いていくんだろう。
それは仕方のないことで、受け入れて祝福するべきことなのかもしれない。けれどわだかまりは消えない。
今日も友人に会った。
「明日大学の方に引っ越すから、思い出の場所巡りしてたの。そのとき好きだった音楽聴きながらね。」と彼女が撮った小学校や中学校の写真を見せてきた。涙出てきちゃうよね〜なんて言って、彼女の昔話もしてくれた。音楽関係で高校時代に知り合った友人なので彼女の学生時代はよく知らない。どうやら彼女は見た目のことで色々と中学時代に辛い思いをしたらしい。それでも笑顔で「そういう経験したから私だけは優しくなりたい」と言う。進学先は精神関係の福祉大学らしい。「ここから離れるのは寂しいし、これから不安しかない。けどまた就職は戻ってくるつもりだからね」
子供っぽい彼女も4年後には大人になって帰ってくるんだろう。けれどその変化だけは楽しみに思えた。憧れもした。そして彼女の純粋さだけは変わらないように思う。多分辛い思い出も含めて綺麗なものとして受け入れてるからだ。
僕もこれから東京にいって、あくせくと変化していく環境に呑まれていって、また誰かの近況報告に一喜一憂していくんだろう。誰かが思い出にすがるのは醜いことだと言っていた。僕も極度に記憶を美化しすぎるのは嫌いだ。それでも思い出が何かを綺麗にすることは知っている。音楽や小説や、自分自身や。どれだけ醜くすがってもいいから、記憶の中だけでもいいから、僕も、できれば周りも、純粋なままでいてくれたらなと願いながら、久しぶりに僕はフジファブリックのファーストアルバムを再生した。
6/17、出演者紹介
柏原です。
今回は6/17の出演バンドの紹介をしたいと思います。紹介とかオススメのような「好きなものを他人に推し勧める」行為はオタクの得意分野でありまして、幾度となくこれを繰り返し、何回周囲から嫌悪されたことでしょうか。KEYT○LKが好きなキャピキャピ高校生にthe c○bsを勧め、「こんなの私の知ってる義勝じゃない!」と嫌がる相手を見て興奮するのが僕の性なのです。さあ君も一緒に絵画の海に溺れようや…なぁ…。
と言いましても今回出演のバンドは全組ナイスでグッドでクールなバンドです。今回は柏原が保証します。
あくまで柏原の個人的な意見で紹介させていただくので……。
まず1組目
【Esto】
「青い約束」
哀愁エモなギターロック。
僕はギターロックは真っ直ぐで王道感あるのが好きなのですが、Estoはこの少し重く渋い感じがたまらない…。ベースとリードギターのフレーズとかグッとくるのが多いし、哀愁漂いながらもガツンと力強いリズムで王道ギターロックであることを忘れていないからこそ僕の心を掴んで離さない……。
エモいバンドの歌詞って難解で独りよがりなときがしばしばあるなって思うんですけど、Estoの歌詞はそうじゃなくて、誰しも感じたことのある、日常に潜んでいる哀愁や焦燥をしっかり伝えてくれるから魅力的なのかなと。(夕方帰宅するときによく春愁EPリピートして激エモ感じてます笑)
サウンドも演奏もめちゃくちゃカッコよくまとまっていて、バンドやってる地元の高校生のあいだでも目指すところというか手本になっていると思います。
演奏してる姿もカッコイイ。特にBa.ヘルさんのベースの弾き方がぐう好きでして…笑
ヘルさんが前に「若い子たちに好かれるような感じじゃないでしょ笑」と言ってましたが、まっすぐがっちり(僕だけじゃなく)ティーンのハートを掴んでますよ!
渋く硬派でありながら人を惹き付ける楽曲と演奏力、そして17日はメロイックサインを掲げよう!笑
2組目は
【hiyorimi】
「明日、その坂を上ったら」
hiyorimi/明日、その坂を上ったら - YouTube
エモ、ポストロック、シューゲイザー、激情系といったジャンルの影響下にある静岡・浜松のバンド。静岡の騒弦というライブハウスで対バンさせてもらったのが出会いですが、対バンする以前に騒弦のオーナーの方に勧められて初めて知りました。最初にYouTubeでライブ映像見たときに、静岡にこんなバンドいたんだ!って衝撃を受けた思い出があります。僕にとって"激情"というとAnd Protectorを好んで聴いていたのですが、hiyorimiはそれこそシューゲイザー色も強くナードな面から激情を表現するバンドだなと。The RestaurantとEstoが日常的だとするなら、hiyorimiは文学的に"退廃の中の美しさや希望"を打ち出してくる感じがします。僕はそういったものが大好きですし、hiyorimiが僕の世界を覆ってるときの感覚がひたすら心地いいんです…。「明日、その坂を上ったら」が特に好きな曲で。イントロの疾走感、立て続けに吐き出されるAメロの哀しい物語のようなリリック、そしてクリアなアルペジオを経て聴き手の世界を覆うノイジーなギター、ラストにリフレインされる「ふたりで逃げよう」。このラストの「ふたりで逃げよう」ってフレーズ、ナードが好きじゃない訳ないじゃないですか笑
hiyorimiは僕が望んでいた激情系の1つなのかもしれません。そんなバンドを企画に呼べたのは凄く嬉しいことです。当日は「ふたりで逃げよう」、シンガロング必須で笑
3組目は
【The Restaurant】
「Summer」
The Restaurant - Summer 【Music Video】 - YouTube
この企画の常連で毎回誘ってるThe Restaurant。今回は新譜のミニアルバムを引っさげてレコ発ギグ!上のMVの「Summer」って曲、前作の深夜二時ep.にも収録されてたのですが、音がめちゃくちゃ良くなってる…!荒さがなくなってクリアで聴きやすく、僕の好きなサウンドに…!笑
音楽と人間性って切り離して聴くべきだという意見をよく耳にしますが、The Restaurantはメンバー方の人柄があってのものだと思っていて、真っ直ぐで誠実な人間性を通してThe Restaurantの音楽が好きになっていくし、音楽を通して人間性が好きになっていくんです。メンバーの方と僕で同じ音楽を好きだったりするのですが、レストランを聴くと、GRAPEVINEやSyrup16g、ACIDMANといった、あのゼロ年代の感動はちゃんとここで息をしているんだって感じます。僕は今17歳なので実際ゼロ年代を体感したことはありませんが、大きな憧れはあって、それをリアルに感じられるのがThe Restaurantなんだと思います。
確かにこのバンドはプロではないです。働きながら音楽を生み出す物凄くインディーズらしいインディーズバンドです。けれどそんな状況下でやってるからこそ見い出せる感動があって、心に響く曲があって、"暮らしの中で"僕らが忘れちゃいけないもの、大切にすべきものを伝えてくれるThe Restaurant。当日はグッドリリックをグッドメロディにのせてみんなで歌おう!笑
(それとFurther Platonicの芹澤さんがThe Restaurantについて書いたブログもぜひ見て欲しい…!)
http://www.furtherplatonix.net/2017/05/24/summerrestaurant/
どのバンドも僕の青春期をどこまでも青く染め上げてくれた、1人のリスナーとして大好きなバンドです。
そして、最後に僕のバンドを…ちょろっと笑
【Seagull】
「夏風、少女に溶けて」
クソ下手な弾き語りをやってた僕(今もですが)はもともとバンドがやりたくて、でもなかなかうまくいかなくて。それでもなんとかメンバー集めて去年の夏からやり始めたのがこのSeagullでした。
ART-SCHOOLとかナンバガとかSyrup16gとかの影響下にあるのかな?(「夏風、少女に溶けて」なんかは完全にナンバガのフォロワーソングだけど笑)
絶賛ティーンの僕は表現のテーマとして「消失と焦燥と憧憬と」ってのを持っていって、大人になることの否定とまでは行かないけど"あどけなさ"を大切にしていこうって感じで曲を作ってます。
僕はメンバーが大好きだし、ここが自分らしくいられる場所なのかなと。
だからってわけじゃないけど17日は思いっきりライブをしたい。対バン豪華だけど気負わずにやりたい。
とにかく口で言ってもしょうがないので見に来て欲しいです。6/17(土)、16:30から三島スタジオO&Kで待ってます!ぜひ!