柏原さんの日常

おるたなてぃぶな生活を

芥川龍之介「葱」のメタフィクション性と知識人のサンティマンタリズムについて

 昔好きだった大学の先生が、「大変深い考察であり感動しました」と言ってくれたレポートを載せます。自己満と記録用ですが、自分でもよくできたと思うので、最後まで読んでいただけると嬉しいです。

 

Q. 芥川龍之介「葱」のメタフィクションの特徴を説明した上で、知識人が何故にサンティマンタリズムに没入したかについて仮説を提示しなさい

 

 A.

 まず「葱」のメタフィクション的要素としていくつかの点が挙げられる。まず自分の小説の締切が近づいていることを述べていること。小説内に作者である(とされる)芥川自身の実状(この小説があくまで芥川による創作物である事実)が描かれている。次にお君さんによって芥川がサンティマンタリズムになりかねないという旨の記述から小説世界の人物が現実世界の人物(作者、語り手)に影響を与えている(影響を与えうる)ことが分かる。また「おれの小説集なりは、唯の一冊見当たらない」という記述から、小説世界と現実世界がそれぞれで独立したものであるとは言いきれず、現実と小説の混合が見て取れる。そして何より「葱」において、作者と登場人物が同じ世界、空間を共有しているように見られる点がある。ここでは作者がお君さんや田中君を眺めるという形で、「葱」の小説世界において、「葱」の小説が創作されている。これらの点から現実と小説、作者と登場人物の境界を不確定なものとし、小説ないでの小説の創作とするように、一般的な小説とは違った重層化された構造を持っているのでメタフィクション的な作品だと言える。
本来理知的な知識人がサンティマンタリズムに没入してしまうかについて、いくつかの仮説をたてる。
まずひとつ現実世界との不和を想定する。「葱」でお君さんが芸術に没頭しているのをみても、貧相な実生活に目を向けたくないためであり、経済的困窮を問わずとも、知識人においてもこのような現実世界、実生活に対しての苦悩のようなものがサンティマンタリズムを引き起こしたのではないだろうか。知識人のなかでも芸術や文学を創作する人間が経済的な困窮をしていた事例も少なくない。「葱」の場合では作者が締切に追われているという状況がある。また芸術家(知識人、文化人とう理知的な人物)が芸術家、知識人としての自己と一市民としての自己が乖離し、その葛藤あるいは苦悩とも呼ぶべきものが引き起こす反動として、創作物(芸術や文学など)に没入せざるをえなかったのではないかと考える。
次に本来極めて理性がとわれる批評や批判が、感情的になってしまったという推測だ。「葱」では作者がお君さんや田中君を見下す構図がみてとれ、その中で見識を述べている。この"見下す"感情、お君さんたちのような薄い人間に苛立つ感情というのが、批評文という体ではなく、小説、しかも自身を小説世界に投影させたうえで語るという形をとってしまったのではないだろうか。理知的であるはずが、そこに感情が入ってしまったのではないか。
そしてもう一つ考えられるのが、理知的な追求の結果のサンティマンタリズムだ。知識人である以上は誰しも客観的な批評精神は十分持ち合わせているはずである。しかしどこまで事物を客観的に批評、研究したところで"客観的に"見れるところしか見れず、その事物の全てを理解するというのは到底難しいものである。例えば貧困問題や経済格差を研究している学者がいたとして、データや他の論文などを用いて優れた考察や論説を導いても、その日暮らしをしている貧しい日雇労働者の感情や思考、思想まで分かることは不可能に近い。これはあくまで喩えだが、芥川のような芸術家、作家をみたときに、恐らく多くの作家、特に芥川になると相当な芸術追求への意志があるだろうし、実際常に高い芸術性、あるいは優れた作品を生み出そうとしているのは間違いない。そうしたとき創作物と現実とを解離させすぎるのは如何なものか。芸術家が人間である以上、現実や経験といったものが芸術を生むのではないか。社会派などという類のものは正にそうだが、真に理知的であるか否かに関わらず、芸術そのものが現実世界と離れたところに、ただ存在しているのではなく、その内容が非現実世界なのであって、芸術の創作の発端、始発点は人間が創る以上現実や社会
、生活といったものでなくてはならない。これは批評も同じように思う。その現実(現実性)をもって理性とするならば、現実(実世界)という創作や批評の根源を、創作や批評自体に内在させる、あるいは不可分にさせるというのは、ある意味で合理的な手段、思考であるのではないだろうか。更に言うと、芸術というのは、いくら人のためでないと言えども、向かう先には受け手である人(あるいは社会)が存在するのである。作者が受け手への影響を意図しようともそうでなくとも、芸術の世界と現実世界を可分にし、完全に離して考えるのもナンセンスなように思われるし、なかなかそうもできない。言うなれば、往来の理知的な概念に対して、サンティマンタリズムというのは、実験的ではあるが、ある種合理的思考なのではないか。創作、芸術、文化、人文科学等様々な分野において理知的精神は重要不可欠ではあるが、これらが人間から発するあるいは人間性が関与するものである以上、人間性の重要な部分である「感性」などといったものを無視して知識人を全うするというのも、いささか可笑しなものであるように思う。
これらが私のたてた仮説であるが、もう一つ文学に関してこの論題に思うことがある。当時の作家というのは芥川のような知識人がほとんどであったであろうし、作家といえども理知的な思考や優れた批評精神は必要であったと思う。だが、このサンティマンタリズムやメタフィクションというのは、小説あるいは芸術の可能性を広げ、表現の自由度を増す重要な概念だと考える。

 

 

 

 未だに好きな先生に「感動しました」と言ってもらえたことが嬉しくて度々あの学生時代を思い返します。