柏原さんの日常

おるたなてぃぶな生活を

或る少女の話

もう3月も中旬ですね。桜が咲いている光景もちらほらと見受けられます。

 この時期といえば高校や大学の受験の結果が発表されて、受験生が思い思いに過ごしていることでしょう。

 僕は今20歳で大学受験に挑んだのは2年ほど前になります。悔しくも第一志望には落ちてしまいましたが、それでも国公立も合格し第二志望の大学にも受かって充分な結果を残せたと思っています。受験戦争を生き抜いたすえに、素敵な環境で今勉学に励めてるのですから。

 そこで少し昔話をしたいと思います。昔、といっても2〜3年前の受験生の時代の話です。長くなるかもしれませんが、このまま読み進めていただけると嬉しいです。

 僕にとって大切で何にも代えがたい思い出ですので。

 

 僕ははっきり言って勉強が嫌いな、苦手な学生でした。比較的、知的好奇心には溢れていましたが、興味のないことにはとことん興味が無い。その興味のないことが勉強でした。とはいっても好きな教科はありました。日本史や現代文、化学基礎、他にも苦手だけど先生は好きといった教科もありました。

 ただ勉強に対して努力をしようという気持ちは何一つなく、興味のない授業のあいだは眠っていたり読書をしてたり、たまにサボったりもしてました。家で勉強する習慣なんてまったくついてません。受験生になるまで音楽や小説、アニメ、インターネットなどにどっぷりハマっていた僕には勉強なんて眼中になかったのです。

 一応地方の自称進学校の特別進学クラスには所属してましたので毎日のように勉学に励むようにと諭されていました。そういう変に熱心な環境なので定期テストとかでは上手く点数を取らなければいけないのですが、そこは何とかなってました。(自分で言うのもあれですがそれなりに要領は良かったと思います)また、学習習慣の調査や面談では「勉強してます」なんて虚偽の申告をしていました。悪い子です。

 親も時折「遊んでないで勉強しなさい」とは言うものの基本放任主義の家庭なので、学習塾や家庭教師を利用して強制的に勉強させる、なんてことはありませんでした。

 進路に関しても地元よりもっと田舎の名前も聞いたことないような公立大に推薦入試で入れればなあとフワフワした考えを持っていました。甘い考えです。

 それでも高校2年の3学期から徐々に周りの空気が変わってきます。「良い大学にいくんだ」、「勉強頑張らなければ」とクラスや学校全体が学業に精を出す風潮が漂い始めました。これは勉強嫌いの僕にとって都合の悪い流れです。この辺りから僕も変わっていく(変わって行かざるを得なくなる)のですが。

 

 ここで話が変わって或る1人の女の子について話したいと思います。これが本題です。

 その子は同じクラスの大人しい、少し悪い言い方をすれば地味な子でした。ですが顔立ちが良いことから一部の男子から支持されてましたが、本人が男子嫌いの雰囲気をぷんぷん匂わせていたことから誰も近づこうともしませんでした。同性でも友人がとても多いという訳ではありませんでした。

 またその子はとても不思議なオーラを纏った子でした。孤高のようなのだけれど、少し変わってるような、普通の人とは違う雰囲気を醸し出していました。

 僕は読書が好きなことと教室が苦手なこともあって、よく図書室に足を運んでいました。常連客です。それでいて図書委員を務めていました。空調が効いていて、静観としていて、本の匂いが微かに漂う、そんな図書室が大好きで、僕にとって唯一のシェルターでした。そこで本を読んだり外を眺めたり、音楽を聴いたり、司書さんと談笑したり。そんな時間が何よりも大好きで大切でした。

 そんな図書室によくいたのがその女の子です。

 放課後のチャイムが鳴って図書室に向かうとその女の子は2〜3日に1回程の頻度で座っていました。小説を読んでることも多かったですが、何故か科学雑誌の『Newton』をよく読んでいました。僕は不思議な雰囲気を纏いながら『Newton』を読んでいるその女の子にどこか魅力を感じていました。惹かれるものがありました。不思議でありながらどこか神秘的でもありました。

 でもこちらから声をかけれるほど僕は勇気も自信も持ち合わせていません。今も昔もナードなやつなので。

 ただラッキーなことにあちらから声をかけてくれたのです。

その時僕は図書委員の仕事で図書室にいたのですが、図書委員は定期的に学内で配られる図書室広報に「委員おすすめの本紹介」と題されたコラムを書くことになっていたのです。今でも覚えていますが12月号の担当が僕で、その時書いたのがエイミー・ベンダーの『燃えるスカートの少女』の紹介記事でした。僕は文章を書くのが好きですし、何より好きなものを語っていいなんて言われたら嬉しくなってしまう性分なので、他の人よりも何倍も多くの文量を書きました。

 それが目を引いたのでしょう、その女の子は「あなたの紹介記事をみて、気になって借りに来たの」と仕事中の僕に話しかけてくれたのです。その時の喜びといったら形容できません。

 それをきっかけに、それからその女の子とは図書室で話す仲になりました。小説を勧めあったり、勧めた本の感想を言いあったり、共通の小説について議論したり、また時には司書さんを挟んで人生の相談なんかもしたりしました。

 その瞬間は僕にとって何にも代えがたい至福のひとときでした。

 その瞬間僕は世界で一番幸福な人間になれていました。

 その瞬間はとても淡く、それでいてよく澄んだ、青春の1ページでした。

 それから僕と彼女は図書室だけでなく教室や放課後学校外でも話す、とても大切な親友になりました。

 当時17歳の僕が言うと安く聞こえるかもしれませんが、彼女が当時の僕のすべてでした。

 そしてある意味当然の流れのように、僕は彼女のことを好きになったのです。

 だいすきでした。恋してました。そして世界で一番、誰よりも愛していました。

 普段無愛想な彼女が笑うたび、僕は陽だまりの下で心地よい春風に当たっているような、そんな幸せを感じていたのです。

 

 そんな中、僕らは高校3年生、いわゆる受験生になりました。もともと田舎の公立大学に推薦入試でいこうと甘い考えをもってた僕とは違い、理系の彼女は都内のトップクラスの大学を志望していました。

 そして高3になって時間の経ってないある日担任に呼び出されてこう告げられました。

 「出席日数が足りなくて推薦できない」

 まさに今までの怠惰のツケが回ってきたのです。もう一般入試しか残されていませんし、「国公立大学に一般入試でいく!」というクラスの方針もあり、その方向で行くことにしました。ちなみに僕は文系なのですが、この時点では私立大学は考えてませんでした。というか国公立大学信仰の強い学校とクラスだったのと、シングルマザーの家庭なので母親からは散々「私立大学なんかいくな」と言われてました。

 こうなると僕も勉強に対して努力しないといけません。大学受験は定期テストとは違いヤマを張って適当にやっておけばいいというものではありませんし。

 当時僕はSeagullというバンド(今も細々と活動してます)を組んでバンドや音楽にどっぷりの生活でした。なのでまず勉強に集中するためにも一旦区切りをつけようということで、高三の6月に活休ライブをしました。このライブは憧れのバンドと対バンできて最高だったのですが、ここでは話を省きます。

 そして高三の夏前ふとこう思ったのです。

 「彼女は頭もよく勉強もできるのに、僕はなんなんだ。彼女に見合う人間なのだろうか」と。先に言っておきますが僕と彼女は恋人の仲にはなってません。僕の片思いです。

 そしてまたこうも思いました。

 「都内の大学に進学すれば彼女との関係は保たれる!」

 という理由で東京都立大学(旧首都大学東京)を志望し始めました。(この理由以外にも人文学部があり魅力的な教授陣がたくさんいるなどもありました)

 ですが勉強をしてこなかったうえに勉強嫌いの僕に都立大学は遠い存在です。偏差値(これも統計元によって変わりますが)でいうと10以上違います。しかも高三の6月から勉強を始めるなんて結構遅い方です。更に(これは最近発覚、診断が下ったものですが)僕自身注意欠陥の症状を持ってたようで、毎日何時間も勉強するのは困難です。集中できません。だめだめなやつです。

 ですが、その子への熱意(というと恥ずかしいですね)と量より質、気楽にやる方針の勉強方法でなんとか受験期を過ごしました。それと家庭環境が悪く家の居心地が悪かったので、家に帰りたくないがために学校に遅くまで残って勉強して偏差値を上げていきました。

 そうして12月に入る頃には旧帝大も一部狙えるくらいの学力を手に入れました。都立大学(首都大学東京)も安定してA判定をとれるようになりました。

 ですがここで僕の愚かさが露呈します。

 都立大学を目指してたはいいものの、都立大学(のメインキャンパス)が東京都内というよりほぼ神奈川、京王線でいうと超端の方だということに今更気づいたのです。それに対して彼女の志望校は23区内。離れすぎていたのです。

 その子を追いかける一心で勉強してきたのに意味ないじゃん!という気持ちになりました。

 更にあることに気づきます。

 どうやら私立大学のほとんどは23区内、都心にあるらしい、ということです。

  そこでセンター試験一ヶ月前に志望校を私立文系にします。親には「私立大学なんかいくな」と言われてましたが、母親は学費等資金援助をしないと言ってたので、この際私大も国公立大も関係ありません。

 ただ僕は中学生の頃から文学部(人文学部)に入りたいという夢を抱いていたので文学部のある私大、その中でも文学部に伝統があったり魅力的な教授がいたりという理由から、第一志望を早稲田大学文化構想学部、第二志望を明治大学文学部、そして東京都立大学人文社会学部を滑り止めとして受験本番に挑みました。

 まあ1〜2ヶ月で早稲田の対策ができるわけでもなく、私文の対策を全くしてこなかったのもあり第一志望の早稲田には落ちましたが、何とか明治大学東京都立大学には受かり、女の子の志望校に近いからという理由もあって明治大学に進学しました。

 正直学費の高さ等不満が無いわけではないですが、今の環境には満足しています。充分学問をできる大学だと実感しています。

 ですが追いかけた女の子は志望校に落ちてしまいました。その後も1年間は定期的にあったり東京で気分転換に遊んだりと関係は続いていました。ですが残念なことに彼女は一浪して挑んだ再受験も落ちてしまい、二浪が確定してしまいました。

 また去年のこの頃から僕のうつ病や不安障害が酷くなっていきます。抑うつと不安感、焦燥感が日々増幅し、常に希死念慮を抱いてる状態。自殺未遂を試みるまでに至りました。

 それでも僕は病院にはいきませんでした。うつ病や不安障害の患者さんで、最初病気だと認めたくないがために心療内科や精神科に行かず、そのまま悪化するということがよくあるそうです。僕もその1人でした。

 それを分かっていた彼女から4月のある日、LINEが急に来ました。

 「病院いった?」と。

 それに対して僕は「もう全てが嫌になって病院に行くのも億劫だ」との旨を返信しました。

 すると彼女は「そっか」と一つ間を置いて

 「今後一切連絡を取らないし関係を絶つ」とのメールが返ってきました。

 僕はその時京王線新宿駅で全身の力が抜けて、何も考えられなくなりました。

 彼女を世界でいちばん愛していたのに。

 彼女が僕の全てだったのに。

 彼女がいるから生きていけると思っていたのに。

 彼女はなんて残酷なことをするのだろうとその時は思いました。

 

 ですが一年が経った今なら分かります。

 僕は依存しすぎてたのです。醜く縋っていたのです。

 本当は寄り添って生きていかなければならないのに。

 僕は縋ることと寄り添うことを間違えていたのです。

 そして何よりこのまま関係を続けていたら、彼女は受験面で、僕は精神面で、良くないことになると彼女は分かっていたのでしょう。そして僕に病院に行って僕自身と向き合って欲しかったのでしょう。

 

 そんな風に僕らは離れ離れになり、今では会う手段も連絡するつてもありません。彼女が無事合格したのかも確かめようがありません。

 でもこれだけは言えます。

 彼女の決断に深く感謝しているし、今も幸せであってほしいと強く、強く、祈っているということを。

 

 僕はこれからまた大学に戻り勉学に励みます。彼女がいなくても楽しいことがたくさん待っています。音楽に読書に、大学の授業で知識をつけることに、自分が成長することに、ワクワクしています。

 

 ただ一つ高望みをするなら、もう一度彼女とあってちゃんと病気と向き合ってるよって、離れている間にこんなことがあって、こんな小説や音楽があって、こんなことを知って、今こうして生きてるんだよって、以前図書室で僕らが交わしたように話したいなって、会いたいなって強く願っています。

 

 そんな思い出話と今のお話でした。