柏原さんの日常

おるたなてぃぶな生活を

肯定/否定

 僕は塾講師だ。アルバイトだけど。

 色んな教科を教えているが、どの教科でも必ず選択問題が出てくる。しょっちゅう出てくる。「以下の選択肢の中から適切なものを選びなさい」みたいな。

 だいたいそういう問題に出くわしたとき、生徒に「消去法で解いた方がいいよ」という。このアドバイスに対して様々な意見があると思うが、僕個人としては、適切なものを見つけるより不適切なものを見つけることのほうが簡単だと思ってる。

 これは何もテストの問題に限ったことではなくて、世の中の多くの物事に関して、肯定と否定では否定の方がしやすいと思う。ケースバイケースではあるけど。

 僕はよく「信じること」などと綺麗事を連ねるが、信じるなんて簡単にできることではない。ましてや誰かに信じてもらうなんていうのは一筋縄ではいかない。

 何かを肯定することも、信じることも、あるいは受け入れることも、常にリスクと隣り合わせだ。だから否定は自分を守るために誰しもが日常的に行う行為、ある種の防衛手段なのだろう。

 人は誰しも孤独だ。僕はこのことを大前提にしている。完全に一つになるなんて不可能だ。ただ、一部を共有したり理解したりすることはできると思う。共有するのは時間や空間や、あるいは悲しみや嬉しさといった感情など。けれどそう簡単に共有することはできない。共有するためには、誰か(何か)を肯定したり信じたり、受け入れたりしなくちゃいけないからだ。何度も言うようだが、そんなリスキーなことを簡単にはできない。下手したら自分の中の安寧秩序が崩壊してしまう。

 それでも人は何かを共有しようとする。友人や家族や恋人や、自分のそばにいる人と。それは共有することで自分が満たされるからだ。癒されたり幸せを感じたり。

 肯定することや信じること、受け入れることなしに本当の幸福は得られないのではないのだろうか。

 否定や拒絶をし続けて自分を守り続ければ秩序は保たれるだろう。それは一生今日(もしくは過去)の世界に住み続けることだ。それはそれでいいかもしれない。そういう生き方も悪くはない。僕だって安定して生きたい。

 けれど、僕は何か(誰か)を信じたい。それは神様かもしれないし友人や家族かもしれないし、本や音楽や絵画かもしれないし、何かの理論かもしれない。ただ無為に考えもせず受け入れ、肯定し、信じるのは良くない。よく考え、多くを感じ、照らし合わせた末に信じたい。どれだけ精密に論考した結果信じたものでも裏切られる可能性はある。それでも自分が信じたいと思ったものは信じたい。バカだと思われても、低脳だと罵られても。

 信じることや受け入れること無しに明日の世界はないと思ってる。消去法で否定していっても最後には肯定しなければならない選択がまってる。その肯定して信じた選択肢が明日になる。そして明日の世界になればほんの少しだけでも幸福になると思ってる。確証はない。でも自分が受け入れた選択肢なのだから。自分が信じた明日なのだから。この考え自体も僕は信じてる。

 もう自分でも何を言ってるかわからなくなってきた。またちゃんと冴えてる時にこの話をまとめよう。頭がごちゃごちゃしてきたら、とっとと寝るべきだ。少し良くなると信じている明日を迎えるために。