終末と青い車
友人とのLINEでこんな話題が持ち上がった。
「もし世界が終わるとしたらどう過ごす?」
僕は彼女と人気のない海岸に行って、「世界終わっちゃうね〜」なんて焦りもなく他愛のない話をしたい。それで出来ればスピッツの「青い車」をBGMにしたい。まあ彼女おらんけど。
その友人も別段派手なことはやりたくないらしい。いつも通りに過ごしたいと言う。まわりの人達は逃げるのに必死だろうから、街には誰もいないと仮定して、誰もいない道を歩いて、誰もいない大学に行く。いつも通り。でもいつもより少し素敵だと思う。
上京してきて早いものでもう八月になる。相も変わらず東京は人だらけだ。地元に比べて実際の気温も高いのに、それでいて知らない人が街には密集してるのだから暑苦しいったらありゃしない。それでいて都会特有の冷たさがある。
そんな暑苦しくも冷たい空気が張り詰めた人混みにいると、みんな消えてくんないかなとも思う。
眉間にしわを寄せて苛立つ婦人、急かされてるようなサラリーマン、他人の悪口で盛り上がる女子高生、馬鹿みたいに騒ぐ若い男たち。
こいつらは自己保身のために生きているし、自分の快楽にしか興味がない。
もし、ここで急に世界が終わることになったら彼らはどんな風に発狂するんだろうなんて考える。それでこんな下らない人間になりたくないなって嫌悪する。
しかし、皮肉なことに、かくいう自分も周りと大差ないことに気づく。
僕は世界が基本的に好きではない。まれに悪くないなと思うこともあるけれど、常に僕は世界に蝕まれてる(と思ってる)。
ある近代哲学者は世界は認識のうえで成り立っているので、自己を取り巻いているのではなく認識下に、自己の内部に世界が存在しているといっていた。もしそうなら僕の世界嫌いは自己嫌悪の裏返しなのかもしれない。
話は変わって、今夏の熱さは異常だ。友人は世界滅亡前の兆候なんて言っていたけどあながち間違いではない気がする。実は本当に少しずつ狂ってきているのかもしれない。そうならいいのに。それでも相変わらず僕らの生活は続く。いつもと同じように電車に揺られ、いつも同じように大学に行き、いつもと同じように教室の隅に座り、いつもと同じように時間が過ぎていく。その繰り返しの中で、僕は僕を取り巻くものたちに嫌気を感じながらも仕方ないと受け入れて、また元の周回軌道に戻る。流石にそうなると終末論なんかに惚れ惚れしてしまう。
最初に世界が終わるなら〜ということで、スピッツの「青い車」をBGMにしたいなんて言ったけれどこの曲、僕が特に大好きな曲だ。
歌詞がいい。この曲は「男女の心中」をテーマにした歌だ〜とかあーだこーだ考察してる人が多いが、そんなことはどうでも良くて、僕はこの永遠に続くような生活の中の答え、というか一つの理想郷のように思ってる。サビで
君の青い車で海へ行こう
おいてきた何かを見に行こう
もう何も恐れないよ Oh…
そして輪廻の果てに飛び降りよう
終わりなき夢に落ちて行こう
今変わっていくよ
と歌っている。ここであーだこーだ考察する気はないし、色々と解釈の仕方のある曲なんだろう。それはおいといて、僕も永遠に続くような繰り返しの生活に飽きてきているので、シャツを着替えて出かけたい。僕を取り巻く全てを投げ捨てて、おいてきた何かを見に行きたいし、輪廻の果てに飛び取りたい。 形は違っても、友人も僕もそういった自由のようなものを求めているのかもしれない。
僕らを取り巻く世界の終わり、あるいは僕らに内在する世界の終わり。そしてしがらみだらけの輪廻の終わり。