柏原さんの日常

おるたなてぃぶな生活を

死について思うこと

 心理学の講義を受けていると、後ろの方から「死にたければ死ねばいいのに」と女子の声が聞こえた。その講義ではNHKの番組を見せられて、その番組では生きるのに苦しむ若い世代の人たちが、体験を語ったり、「生」について話し合ったりするものだった。

 僕の大学は大して頭のいいところではないが、最低限の節度はある人が集まってるとは思ってたので、正直そういった声が聞こえてくるのはショックだ。

 それでも、死にたければ死ねばいいというのは、一つの解ではあるし、間違った考えだと断言はできない。(ただし、乱暴な口調で言っていたこともあり、その発言をしたこと自体はアカデミックでも道徳的でもない)

  「死にたい」という感情一つとってもそこに込められた意味だとかは、個人で多少なりとも差異はある。生きたい願望の裏返しなのかもしれないし、死にたいとは言っても死ぬことすら面倒くさいのかもしれない。実際生きたくても「死にたい」なんて思うことなんてしょっちゅうだ。

 個人的に、死について考える(認識する)ことがない限り、生について考えることは難しいと、よく思う。死というのは万人が必ずしも迎えるものだ。人間の数少ない共通項。それでも、みんな死についてあまりい印象をもってない。もちろん僕だってそうだ。これまで色んな人が死んで何度も悲しんだし、自分がいずれ死を迎えるということも怖くないと言ったら嘘になる。そもそも死について何も知らない。未知数のそれは、黒いもやがかかって、漠然としてるイメージ。死を暗闇に見立てる一方で、希望のようにも見て取れる。

 死はゴールで、目的で、終わり。結局終わりがあるということに勝る希望はないように思う。学生時代もいずれ卒業するから意味を持つし、受験だって結果はどうであれ、終わりはあるし、一生浪人することなんてまずない。マラソンも、ゲームも、小説も、なんだって終わりがある。どんな楽しいことも、永遠に続けなければならないとしたら、ゆくゆくは苦痛になるだろう。誰しも、終わりがあるから、それまでのプロセスに意味や感動を付与できるのだと思う。

 終わりはあっても人生は色々な循環を孕んでる。毎日同じように起きて、同じように食事をし、同じように寝て、同じようにまた起きるの繰り返し。他にも人によって退屈なサイクルがあるだろうし、ある時ふと立ち止まってみるとバカバカしくなったり、虚ろになったりする。それにそんな僕らの生活なんて、楽しいことよりも辛いことの方がほとんどだ。それで死にたいなんて思っても、本当に死ねる人は少ない。結局なんやかんやで生きることがほとんどだ。今死ななくてもいずれ死ぬ。それまでに意味付けをしなければならないと思う人もいるだろうし、まだ人生に価値を見出してないから死ねないと思う人もいるだろうし、様々だ。生に何かを求めるのは、エンドロールがあることを認識しているからで、そういった意味でも、人生を豊かにしたいなら、終わりを認識することは避けて通れないと思う。

 僕の周りには、長生きしたいと思わないという人が多い。僕もそう思う節がある。どんどん平均寿命が伸びていって、健康がもてはやされる今日、「長生きしたくない」なんていうと、よく首を傾げられる。もちろん、健康体に越したことはないし、長く生きればその分楽しいことも増えて、色んな経験もできる。でも量が全てには思えない。最近Quality of Lifeなんて言葉をよく耳にして、僕も意識することがあるが、みんなが求めるのはQuantity of Lifeのように思える。量が必ずしも質に繋がるとは言えない。ほどよく平和に多くを生きるよりも、半分でいいから何よりも美しい体験を、充実した感覚を得たい。もっと欲を言うなら短命でいいから、死に際に誰よりも素晴らしい人生だったと、充実感を持っていたい。ただ僕はまだそこまで満足したかと言われればしてないから、死にたいと頻繁に思っても死にきれない。

 話を元に戻すと、「死にたいと思うなら死ねばいい」というのは間違えではなくても、発言した女子はおそらく死について考えることが少ない人だと思う。そういった人たちとは対照的に僕らは「死にたい」と思う。同時に生きることを認識する。価値を見出そうとする。死に思いを馳せることは、どこかで生に思いを馳せてることの裏返しでもあるのかもしれない。

 僕は、本当に終わりを迎える時、「死にたい」ではなく「死んでもいい」と思っていたいな、なんて願ってる。