天才だった頃の僕に
才能ってなんだろう。
僕が小・中学生の頃は自分が才能のある人間だと信じていた。知識も豊富だったし、大して勉強しなくてもテストでそこそこの点数を取っていたし、小・中学生にしては深く物事を考えることをしていた。周りを見下すまではいかなくても、「子供っぽいな」とか「何で分からないのかな」とか斜めから見ていた節はある。
一応成年と呼べる年齢になって色んな世界を見てみると、自分が大した才能を持ち合わせていないことに気付いた。至極普通な凡人。むしろ劣っていると感じることもある。中途半端な、つまらない大人に近付いてることが分かる。
あれほど嫌悪してたつまらない大人に自分がなるのか、つまらない生き方で社会に順応していくのか。きっと中学生の僕には想像出来なかったし、想像したくもなかったことだ。
15歳の僕はいくらでも自由に理想を描けた。無邪気に語ることもできた。学者にも、ベストセラー作家にも、ロックスターにも、なんなら総理大臣にだってなれたかもしれない。
けれど僕はそこからたくさんの現実を知って、大人になっていく周りを無視できなくて、昔描いてた理想に価値を見いだせなくなって。それに僕よりも美しい文章書く人や良い曲を書く人、教養があって頭が冴える人なんてごまんといるんだってことを痛いほど思い知らされた。
僕の好きなバンド、Syrup16gの『天才』という曲にこんな一節がある。
天才だった頃の俺にまた連れてって
いつのまに
どこで曲がったら良かった?どこで間違えた?
教えてよ
この曲を書いた五十嵐隆のいう"天才だった頃"が どんなものかは知らないけど、僕に天才だった頃があるとしたら、さっきも言ったとおり、いくらでも理想を描けて、誰がなんと言おうとそれを実現したいと強く願えた時代のことだ。またその天才だった頃に僕を連れていってほしい。いや、連れていって欲しいというよりも、天才だった僕が今の僕の立場になったらどうだろう。きっと与えられた自由や恵まれた環境の中で、いくらでも理想を実現できる手立てに溢れていることに大喜びするだろうし、実際行動に移すに違いない。
僕は年を重ねていって、増えていく自由に甘えて、汚されて、誰かが決めたカリキュラムや道筋に沿っていく生き方に安心してしまった。人目を気にせざるを得なくなって、自分自身で価値を見つけることを放棄しつつある。
なら今僕にとって価値を見いだせるものは何か。こういうと大層だけど、要は喜びや満足感を感じるのはどういった時だろうと考えてみると、誰かが喜んだり感動してくれたりするのが何よりも嬉しかった。志村正彦や木下理樹や麻枝准に憧れてた昔の僕は、自分が彼らにそうしてもらったように、誰かの心を救ってあげたいと願っていた。今の僕にそこまで強いヒーロー願望はないけれど、それでも誰かが感動してくれるのは純粋に嬉しいし、自分も誰かの心を少しでも救ったり感動させたりできたらいいなと思う。
先日、何気なくこのブログを再開して「記憶に縋っても」というタイトルで一つ記事をあげると友人から「うるっときて泣いてしまった」と言われ、フォロワーさんからも共感のリプがきた。単に承認欲求が満たされて舞い上がってるだけかもしれないが、自分が誰かの心を1ミリでも動かすことができたことが嬉しくて、久しぶりにちゃんと生きてる心地がした。生きがいを得たみたいな。
有難いことに文章を書くの上手いねと言ってくれる人もいるけど、正直僕は自分の文章は稚拙で才能だなんて言えたもんじゃないと思ってる(現に今こうして記事を書いていても無駄が多くて完成度の低い文章だと痛感してる)
それでも少しの人たちの心を少しだけ動かせたことは、価値のあるものだ。
きっともう僕は志村正彦にも麻枝准にも、もちろん総理大臣にもなれやしない。おそらく天才だった頃の自分に戻ることも無理だろう。だけど僕の好きな人たちをほんの少しだけでも救えたとしたら、昔の僕とはまた違った天才なれるんじゃないか。別になにも物書きをするというわけではなくて、日常で誰かに優しくするだけでもいい。むしろそういう何気ないことこそが、紛れもない"才能"なんだと思う。