柏原さんの日常

おるたなてぃぶな生活を

憎しみの代わりに愛すること

 

  憎しみの代わりに愛することができたなら、世界は少しだけ良くなるんじゃないかと思う。

 

 僕の父親の実家は東日本大震災の被災地だった。僕に近い親族の多くは海抜の高いところに住んでいたから無事だったけれど、港の方に住んでいた親族は何人か亡くなったそうだ。

 当時小学生だった僕は、震災の年の夏に、実際に被災地を見に行った。海辺の街は跡形もなくなり、瓦礫をまとめて集めた山がいくつも出来ていた。どうしようもない空虚さを誤魔化すように、ただそこにいくつもそびえたっていた。SF映画でみたような「世界の終わり」なんて素晴らしいものではなく、中途半端に世界が終わってしまい、行き場のない絶望が漂う、そんな残酷さを感じた。

 祖母がこんなことを言っていたのを覚えている。

 「戦争はね、憎むものがあったのにね。この地震はなんにも憎めないよ」

 戦争は憎む対象が明確だ。仇がいる。敵国がそうだし、人によっては自国の政府や憲兵なんかを恨むかもしれない。けれど震災は違う。基本誰のせいでもない。神様を憎んだってどうしようもない。

 絶望や喪失の前に立たされたときに、憎めることはある意味では救いだと思う。それで現状が変わることはないが、少なくとも消失感を埋める感情にはなり得るし、これからの原状回復に向けた強い行動原理になるかもしれない。憎しみは心の埋め合わせにはバッチリだ。

 僕が父親を亡くした直後、母親と口論になるたびに「人殺し」と罵ることが多々あった。もちろん母親は直接父を殺したわけではないし、父が亡くなったのはアルコール摂取量が多くなったことによる肝臓と腎臓の病気が大きな要因だ。しかし、僕はどうも母親がいなければ父親は生きていたように思っていた。母が毎日のように父親に罵詈雑言を浴びせて、ひどい扱いをしていたから、お酒の飲む量ががどんどん多くなり結果的にこういうことになってしまったのだと。本当はそれ以外にも父親の飲酒量を増やす心理的な圧力はあったし、正直こじつけのようにも聞こえるが、僕は本気でそれを理由に母親を憎んでいた。母親との確執は昔から存在していたとはいっても、当時の僕は心を埋め合わせるために母親を憎んでいた。「人殺し」と平気で言うほどに。

 憎むことは僕の中で正当化されて、絶対悪を作ることで心の安寧秩序を守っていた。

 とは言っても喪失感は時間とともに薄れていって、僕も大人になり母親を憎むことが無意味だと悟った。

 今では母親との関係は改善されてきている。仲良し親子とまではいかなくても、そこそこ明るい関係は築けてきているのではないかと思う。

 ただ、問題は父方の親族との関係で、先日母親と父方の祖母が電話する機会があったのだけれど、祖母は母親をよく思っていないらしい。なんなら生前父と母が離婚してから母方の姓を僕が名乗っているのにも嫌な様子だったという。祖母は僕の母を憎んでいてもおかしくはない。だって殺しまではいかなくとも、自分の愛息子の人生を乱した1人ではあるのだから。相当な虐めもやっていたわけで。それは仕方がないこと。僕だって母親との関係が良くなっているとはいえ、未だに腑に落ちていないことも多々ある。

 

 だけど、憎しみの代わりに愛することができたなら、それが一番の救いになると思ってる。

 今までのことを考えれば、母を憎むことはなんら悪いことではないだろうし、僕は僕の道徳のためにも憎むべきなのかもしれない。

 けれども父は僕と母の関係が良好になることを望んでいたし、親子なら愛し合うような関係が一番だと思っていた人だった。

 だから僕は母親を憎むかわりに愛したいと思う。許すとか許さないとかではなく、愛すること。きっと本当に愛するためには長い時間が必要となってくる。それでもいつか愛せたらなと思う。

 

 舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる」という僕の大好きな小説があるのだけれど、その冒頭にこんな記述がある。

 

愛は祈りだ。

僕は祈る。

僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。

それぞれの願いを叶えてほしい。

温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。

最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。

 

 「憎しみは何も生まない」なんてよく言うけど、その通りかもしれない。何かしら生むとしてもそれは良くないものだろうし、そんなことよりもみんな幸せになった方が結局はいい。綺麗事で、本当はそんな平和な世界にはなりえないのだけれど、少なくとも祈ることはできる。だから祈る。愛することで祈る。

 あれほど憎んだ母親も、亡くなった父親も、僕の母親をよく思っていない祖母も、他の親族も、もちろん友人も、あるいは何も無くなった港町も、笑顔を取り戻して日々頑張って過ごしていくそこの人たちも、そして彼らから大切なものを奪い、僕の思い出も消し去った海も。全部愛せればと思う。憎しみのかわりに。愛は祈りだから。

ラストティーンと回転木馬と三月と

 今日でとうとう19歳になってしまった。

 正直ここまでくるなんて思ってなかった。去年の今日もそうだったけど、何が失われたような感覚がある。モラトリアムがちゃくちゃくと終焉に向かってる。ひしひしと、じりじりと、足音を立ててこっちに近づいてきている。

 時の流れに敏感に、そして悲観的になってきた。いずれ、あれほど嫌ったはずの退屈でつまらない大人になるのだと思うとやるせない。そうならないように足掻いてはいるつもりだけど。

 それでも以前より、大人になることを、生き延びることを肯定的に捉えられるようにもなってきた。僕は永遠に少年でいられないし、ましてやカート・コバーンにも志村正彦にもなれやしない。なんやかんや生き延びていくんだろうなと思う。別にカート・コバーンになれなくても、木下理樹はなんやかんやで40過ぎても「子供たちのシェルターとなるように」と音楽を続けているし、歳をとってからみずみずしい作品を世に出している作家もたくさんいる。そういう存在になれたらいいな、なりたいなって願いながら、日々何かを積み重ねていけばいいかなって、そう思う。

 とは言っても失われたものは少なくない。放課後一人で過ごす図書室も、夏の日プールの塩素の匂いも、初めてNumber Girlを聴いたときの衝撃も。全てもう感じることのないもので、記憶からも消えていくのかもしれない。昔から何かを失うことに敏感だったので、こういうのも酷く悲しい。

 それでも永遠は何かしらあると思ってる。いつだか、誰かが「ライ麦畑でつかまえてティーンのうちに読んでおかなければならないし、歳をとるにつれて価値が薄れていく。でも最後の回転木馬のシーンだけは永遠なんだよ」と言っていた。もしそうならいいな。クソつまらない日々を送ってクソつまらない人間になったとしても、回転木馬のシーンを読んで、一瞬だけでも優しい人に、ティーンの頃に戻れるのだとしたら、それは何よりも素晴らしいことなんじゃないかと思う。

 最後に、ラストティーンを迎えるにあたってBalloon at dawnというバンドの「三月」という曲を聴いているのだけど、これもまたある種、一つの永遠のように感じている。そして永遠でもあるし、モラトリアムが終わる人間の答えの一つのでもあるんだろうね。

Balloon at dawn /三月(OFFICIAL MUSIC VIDEO) - YouTube

「三月はいつも終わりだね」って

カーテンの向こうで言う

 まあ今8月なんですけれども。

 

 

終末と青い車

 友人とのLINEでこんな話題が持ち上がった。

 「もし世界が終わるとしたらどう過ごす?」

 僕は彼女と人気のない海岸に行って、「世界終わっちゃうね〜」なんて焦りもなく他愛のない話をしたい。それで出来ればスピッツの「青い車」をBGMにしたい。まあ彼女おらんけど。

その友人も別段派手なことはやりたくないらしい。いつも通りに過ごしたいと言う。まわりの人達は逃げるのに必死だろうから、街には誰もいないと仮定して、誰もいない道を歩いて、誰もいない大学に行く。いつも通り。でもいつもより少し素敵だと思う。

 上京してきて早いものでもう八月になる。相も変わらず東京は人だらけだ。地元に比べて実際の気温も高いのに、それでいて知らない人が街には密集してるのだから暑苦しいったらありゃしない。それでいて都会特有の冷たさがある。

 そんな暑苦しくも冷たい空気が張り詰めた人混みにいると、みんな消えてくんないかなとも思う。

 眉間にしわを寄せて苛立つ婦人、急かされてるようなサラリーマン、他人の悪口で盛り上がる女子高生、馬鹿みたいに騒ぐ若い男たち。

 こいつらは自己保身のために生きているし、自分の快楽にしか興味がない。

 もし、ここで急に世界が終わることになったら彼らはどんな風に発狂するんだろうなんて考える。それでこんな下らない人間になりたくないなって嫌悪する。

 しかし、皮肉なことに、かくいう自分も周りと大差ないことに気づく。

 僕は世界が基本的に好きではない。まれに悪くないなと思うこともあるけれど、常に僕は世界に蝕まれてる(と思ってる)。

 ある近代哲学者は世界は認識のうえで成り立っているので、自己を取り巻いているのではなく認識下に、自己の内部に世界が存在しているといっていた。もしそうなら僕の世界嫌いは自己嫌悪の裏返しなのかもしれない。

 話は変わって、今夏の熱さは異常だ。友人は世界滅亡前の兆候なんて言っていたけどあながち間違いではない気がする。実は本当に少しずつ狂ってきているのかもしれない。そうならいいのに。それでも相変わらず僕らの生活は続く。いつもと同じように電車に揺られ、いつも同じように大学に行き、いつもと同じように教室の隅に座り、いつもと同じように時間が過ぎていく。その繰り返しの中で、僕は僕を取り巻くものたちに嫌気を感じながらも仕方ないと受け入れて、また元の周回軌道に戻る。流石にそうなると終末論なんかに惚れ惚れしてしまう。

 最初に世界が終わるなら〜ということで、スピッツの「青い車」をBGMにしたいなんて言ったけれどこの曲、僕が特に大好きな曲だ。

スピッツ / 青い車 - YouTube

 歌詞がいい。この曲は「男女の心中」をテーマにした歌だ〜とかあーだこーだ考察してる人が多いが、そんなことはどうでも良くて、僕はこの永遠に続くような生活の中の答え、というか一つの理想郷のように思ってる。サビで

君の青い車で海へ行こう

おいてきた何かを見に行こう

もう何も恐れないよ Oh…

そして輪廻の果てに飛び降りよう

終わりなき夢に落ちて行こう

今変わっていくよ

 と歌っている。ここであーだこーだ考察する気はないし、色々と解釈の仕方のある曲なんだろう。それはおいといて、僕も永遠に続くような繰り返しの生活に飽きてきているので、シャツを着替えて出かけたい。僕を取り巻く全てを投げ捨てて、おいてきた何かを見に行きたいし、輪廻の果てに飛び取りたい。 形は違っても、友人も僕もそういった自由のようなものを求めているのかもしれない。

 僕らを取り巻く世界の終わり、あるいは僕らに内在する世界の終わり。そしてしがらみだらけの輪廻の終わり。

 

平成最後の三ツ矢サイダー

 僕の家には冷蔵庫がない。

 上京するときに買っておくべきだったのに、その時何故か「無くても困らないだろう」という考えに至り、冷蔵庫無しで新生活4ヶ月目を迎えてしまった。

 ところが気がついたらもう東京は夏だ。茹だるような暑さと張り付いたシャツにイライラしつつ、どこか爽やかさを感じる季節。暑いのはとても嫌いだけど、夏はそんなに嫌いじゃない。特別な季節だと思う。夏には特別な瞬間がたくさんある。例えば、炎天下の中で歩き疲れて、頭の悪いほど冷房の効いたコンビニに入った瞬間とか、誰もいない午後三時の駅のホームでセブンティーンアイスを食べる瞬間とか。特に僕が幸せを感じるのが、暑い中、帰宅してすぐにキンキンに冷えた三ツ矢サイダーを飲む瞬間だ。

 しかし、残念なことに今家には三ツ矢サイダーをキンキンに冷やしてくれる冷蔵庫がない。だから帰ってきて机の上に置いてある三ツ矢サイダーを飲んでも、最悪だ。生ぬるくて、炭酸も抜けて、三ツ矢サイダー三ツ矢サイダーたらしめている良さが一つもない。そんなのを飲み干すと、どうもやるせない気持ちが残る。酷いときは今までの人生すら思い詰める。

 思えば、生ぬるいサイダーを飲み干すような感覚でここまで生きてきた。

 僕はそろそろ19になる。平成だって今年で終わる。1999年というノストラダムス先生が世界滅亡を予言した年に生まれ、平成最後の年にラストティーンエイジを過ごす僕のここまではどんなものだったろうか、と思い返してみても大して華やかではないことに気づく。やるせなさを感じるほど平凡。ときどき夢を描いても、何かが起こったためしはない。結局僕が生まれても世界は滅びることなく、時間だけが経っていったし、きっと平成もなんてことなく過ぎ去っていくんだろう。

 惰性と受容と諦観でここまで辿り着いた。相変わらず。それでも何か起こるんじゃないか、変わるんじゃないかって期待してる自分がいる。大学に入って退屈な大人になったかと思ったけど、まだティーンエイジ精神は残ってるみたい。と言ったところで何もしなけければ、今まで通り何も変わらないわけで。ただ大それたことは思いつかないが、せめて、この卓上に気だるそうに立っている生ぬるい三ツ矢サイダーを冷やすことぐらいはできるんじゃないかって思う。だから明日は、まだ行ったことのない隣町へ、冷蔵庫でも探しに行こうと決めた。

詩②

街宣車、思想家たちは祭囃子

雑踏に叫ぶ、彼らの愛。それもまた雑踏に変わる

ローファー、サンダル、スニーカー。普遍になってアンサンブル

絶対がないことを知ってる人はどれほどいるんだろう

思想家、それでも叫ぶ。彼らの愛

流動する都市、激情さえ無知、並行した是非

誰もが浮遊する球体の中を泳いでいる

 

あぁ、まただ。また呼ばれている

歩道橋の上、すれ違う度に、ノイズ

スローモーション、魚だ!ここは水槽!

 

思想家が叫ぶ。ノイズの海に。

彼らも魚、革命家の夢をみるだけ

 

あぁ、終末だ。今日も。

水槽に紫陽花の血液が流れ込む

祭囃子もオーケストラも呑んだ

ふいに静寂、ここは夏

張りついたシャツに煩悩、拭えない

こんなもんだ、革命家はいやしない

老婆が階段を降りる

思想家、それでも叫ぶ

形にならない愛を、正義を

侮蔑の目を向ける僕

魚群に背を向けて

今日もまた善人ごっこ

死について思うこと

 心理学の講義を受けていると、後ろの方から「死にたければ死ねばいいのに」と女子の声が聞こえた。その講義ではNHKの番組を見せられて、その番組では生きるのに苦しむ若い世代の人たちが、体験を語ったり、「生」について話し合ったりするものだった。

 僕の大学は大して頭のいいところではないが、最低限の節度はある人が集まってるとは思ってたので、正直そういった声が聞こえてくるのはショックだ。

 それでも、死にたければ死ねばいいというのは、一つの解ではあるし、間違った考えだと断言はできない。(ただし、乱暴な口調で言っていたこともあり、その発言をしたこと自体はアカデミックでも道徳的でもない)

  「死にたい」という感情一つとってもそこに込められた意味だとかは、個人で多少なりとも差異はある。生きたい願望の裏返しなのかもしれないし、死にたいとは言っても死ぬことすら面倒くさいのかもしれない。実際生きたくても「死にたい」なんて思うことなんてしょっちゅうだ。

 個人的に、死について考える(認識する)ことがない限り、生について考えることは難しいと、よく思う。死というのは万人が必ずしも迎えるものだ。人間の数少ない共通項。それでも、みんな死についてあまりい印象をもってない。もちろん僕だってそうだ。これまで色んな人が死んで何度も悲しんだし、自分がいずれ死を迎えるということも怖くないと言ったら嘘になる。そもそも死について何も知らない。未知数のそれは、黒いもやがかかって、漠然としてるイメージ。死を暗闇に見立てる一方で、希望のようにも見て取れる。

 死はゴールで、目的で、終わり。結局終わりがあるということに勝る希望はないように思う。学生時代もいずれ卒業するから意味を持つし、受験だって結果はどうであれ、終わりはあるし、一生浪人することなんてまずない。マラソンも、ゲームも、小説も、なんだって終わりがある。どんな楽しいことも、永遠に続けなければならないとしたら、ゆくゆくは苦痛になるだろう。誰しも、終わりがあるから、それまでのプロセスに意味や感動を付与できるのだと思う。

 終わりはあっても人生は色々な循環を孕んでる。毎日同じように起きて、同じように食事をし、同じように寝て、同じようにまた起きるの繰り返し。他にも人によって退屈なサイクルがあるだろうし、ある時ふと立ち止まってみるとバカバカしくなったり、虚ろになったりする。それにそんな僕らの生活なんて、楽しいことよりも辛いことの方がほとんどだ。それで死にたいなんて思っても、本当に死ねる人は少ない。結局なんやかんやで生きることがほとんどだ。今死ななくてもいずれ死ぬ。それまでに意味付けをしなければならないと思う人もいるだろうし、まだ人生に価値を見出してないから死ねないと思う人もいるだろうし、様々だ。生に何かを求めるのは、エンドロールがあることを認識しているからで、そういった意味でも、人生を豊かにしたいなら、終わりを認識することは避けて通れないと思う。

 僕の周りには、長生きしたいと思わないという人が多い。僕もそう思う節がある。どんどん平均寿命が伸びていって、健康がもてはやされる今日、「長生きしたくない」なんていうと、よく首を傾げられる。もちろん、健康体に越したことはないし、長く生きればその分楽しいことも増えて、色んな経験もできる。でも量が全てには思えない。最近Quality of Lifeなんて言葉をよく耳にして、僕も意識することがあるが、みんなが求めるのはQuantity of Lifeのように思える。量が必ずしも質に繋がるとは言えない。ほどよく平和に多くを生きるよりも、半分でいいから何よりも美しい体験を、充実した感覚を得たい。もっと欲を言うなら短命でいいから、死に際に誰よりも素晴らしい人生だったと、充実感を持っていたい。ただ僕はまだそこまで満足したかと言われればしてないから、死にたいと頻繁に思っても死にきれない。

 話を元に戻すと、「死にたいと思うなら死ねばいい」というのは間違えではなくても、発言した女子はおそらく死について考えることが少ない人だと思う。そういった人たちとは対照的に僕らは「死にたい」と思う。同時に生きることを認識する。価値を見出そうとする。死に思いを馳せることは、どこかで生に思いを馳せてることの裏返しでもあるのかもしれない。

 僕は、本当に終わりを迎える時、「死にたい」ではなく「死んでもいい」と思っていたいな、なんて願ってる。

詩①

 鉄くずで作られた空想のうえを、歩く

 ぽつり、ぽつりと、こぼれ落ちる記号を

 集めて、積み重ねて、そしてまた崩す

 繰り返し、繰り返す

 ぐるぐるまわる洗濯機のような

 生活

 歪みが、ひとつ、またひとつ

 増えていくたび、忘れる

 錆び付いた写真、壊れた玩具

 

 どこにいるの? 

 なにをしてるの?

 どこまでいけるの?

 

 答えられるわけがない

 だから、探る

 今日もこぼす、記号を

 あるはずのない、希望も

 今日も歩く、この空想のうえを

 

 幾何学、デジタル、アルゴリズムの中で

 言葉を吐き出す

 可能性を事実にしたくて

 札束の山に火をつけるように

 あるいは屋上から飛び降りるペンギンのように

 境界線を探す

 

 世界の中に私はいない

 思考の限界、世界の限界

 

 決まりきったようで曖昧な空想のうえで

 感情を電気信号にかえて

 こぼす

 今日も

 有り得ることの証明に

 落とす

 

 無意味で

 無慈悲な

 生活の果てで